はじめての方へ

自己紹介 宅島 健


はじめまして、宅島 健(たくしま たける)です。
Movie Holicアカデミアの講師をしています。

今でこそ動画クリエイターとして楽しい毎日を送っていますが、
ずっと順風満帆な人生を歩んでいたわけではありません。

新卒で入社した会社、そして副業として始めたビジネスでも挫折を経験しています。
しかし、ひとつの出会いが僕の人生を大きく変えたのです。

元気な少年だった

1990年8月22日長崎県長崎市で生まれ。

父親の転勤をきっかけに愛知県で幼少期を過ごしました。

父、母、姉が2人の5人暮らし、裕福な家庭ではなかったが、毎日楽しく暮らしていました。

お姉ちゃんが2人の末っ子だった僕は、なんでも許されると思っていたわがままな少年でした。

 

幼い頃はとにかく負けず嫌いで活発、運動がとても大好き。
友達と鬼ごっこや戦隊ごっこ、秘密基地を作ったりして日が暮れるまで遊んでいました。
足の早さが自慢でした。

 

 

勉強はというと、とても嫌いで、成績は下から数える方が早いくらい。

「タケルくんはいつも授業中、ぼーっとして集中力がない」と先生に怒られたことを今でもよく覚えています。

 

 

父は建築家でした。よく建築現場に連れてってもらいました。

仕事している父はかっこよく、幼い自分には父の後ろ姿が輝いて見えました。

僕の将来の夢は自然と父と同じ大工さんになることでした。

 

 

小学校から近所の仲の良いお兄ちゃんに誘われバスケットボールを始めることになります。

そこから僕はバスケ一筋に。

小学校高学年から高校卒業するまでずっとバスケ漬けの毎日でした。

バスケプレイヤーにしては身長が低く周りの背が高い人に比べて置いていかれていました。

でも僕はバスケが好きだったので、他の人が帰ったあとも居残り練習を続けました。

小学生から高校までバスケ一筋で没頭した僕は、高校生でなんとキャプテンに選ばれたんです。

元々弱小高だったが信頼できる仲間と毎日鬼の量の練習量をこなした結果、地区大会でなんと優勝することができました。
このときは仲間と泣きながら抱き合い喜びました。

この時の達成感は今でも忘れることのできない最高の思い出です。

 

 

部活動で燃え尽きた僕はふと気付きます。

「バスケ以外自分のやりたいことがない」

そして急にこの先の自分の人生が見えなくなりました。
この先何を目標に進路を決めればいいのか?

毎日を無駄にぼーっと過ごしていました。

 

就職そして挫折

 

愛知県は工業が盛んです。

とくに理由はなく、ただそれだけの理由でなんとなく機械科の大学に進み、そのまま自動車メーカーに就職をしました。

 

毎日必死に働いて汗だくになりヘトヘトになって帰宅、月収も18万円そこらでした。

自分が高校生時代バスケをやっていたころに思い描いていた未来とは大きく違っていました。

 

 

ある日突然現場から事務作業に異動になり、それがまったくやりがいを感じることが出来ませんでした。

自分が頑張って働いても評価されず、明らかにやる気のない社員と給料が変わらないのが理不尽で仕方ありませんでした。

苦しくて苦しくて嫌でたまらなかったが、「途中で投げ出してはダメだ」と自分の中で言い聞かせていました。

 

 

そんな時に今の妻である彼女と出会います。

僕たちは意気投合し結婚を決めました。

幸せな気持ちとは反対に、会社の労働は厳しくなる一方でした。

勤続年数だけが増えていき責任を押し付けられ、上司からは残業するなと理不尽な叱責を受ける毎日。
休日終わりになると会社に行くのが辛く、不眠症になりました。

 

 

そして僕はとうとう、うつ病になってしまったんです。

そんな中でも妻はいつも支えてくれました。
僕が働けない状態で給料がもらえない状態でも将来のことを考え家事のスキマ時間にパートをして貯蓄をしてくれていました。

うつ病になってしまうような労働環境でも僕は転職ができないでいました。

自分にはこれといったスキルもなく「転職してもきっと給料が下がるだけ」

そう思い転職出来ず会社にしがみつくしかない状態で、ストレスを抱えたまま7年勤務。

 

葛藤

そして、このとき僕の人生のターニングポイントが訪れる。

そう。妻が1人目の子供を授かったのです。

心から嬉しく、僕は飛び跳ねて喜びました。

だが同時に僕の頭にこうよぎりました。

「子供の養育費はどうする?」「妻と子供に満足させてあげるだけの収入はあるのか?」

その自信がありませんでした。

と同時に、こんなことを考えている自分が無性に情けなくなった。

「本当にこのままでいいのか?」

僕は自分に深く問い詰めるようになりました。

 

そして僕は行動を起こすことを決意しました。

まずは副収入を得ようと副業に挑戦しました。

物販のコンサルを受けてせどりで稼ごうとしたんです。

だがそのコンサルは詐欺で、先生に逃げられてしまいました。

物販自体もお客さんと顔を合わせるわけでもなく、全くやりがいを感じることはできませんでした。
何より、なけなしのお金で受けたコンサル。詐欺に遭ってしまったことに絶望をしていました。

家族に辛い思いをさせたくないという気持ちが裏目に出てしまいました。

 

そんな時ふと思い出したんです。

実は僕は素人なりにも、自分の結婚式の動画を自分で作ったことがありました。

完成度は素人ながらも、たくさんの人がその動画で喜んでくれました。

なによりもあの時の嬉しそうな妻の笑顔が忘れられませんでした。

「そうだ動画クリエイターになろう。」

そう思い立ちました。

最初は自分自身で動画編集のスキルを磨きました。

かたっぱしから教材や参考書も買って本気で学びました。

最初は1本300円だとか500円だとかの低単価案件をこなしはじめました。

最初は安くてもいつか単価を上げることができる。

自分のスキルがレベルアップすれば絶対稼ぐことができる。

そう信じて突き進みました。

だがそれも、そううまくはいきませんでした。

2ヶ月3ヶ月と

副業ではじめても月収は3万円くらい。

6ヶ月目も寝る間を惜しんで働いても月に5万円ほどの壁を超えることはできませんでした。

重労働である本業もある中、このままやり続けたら体を壊してしまう。

 

そう諦めかけた矢先、

僕はとある人と出会います。

 

今の動画クリエイターの先生でした。

出会い

先生はプロ動画クリエイターで月収1000万円を超える本物の成功者でした。

僕は一度詐欺にあっています。
だからまた1歩を踏み出すことが怖く、これ以上妻と、生まれてくる子供に迷惑をかけるわけにはいかない。これがラストチャンスだ。
そう勇気を振り絞って、もう一度自己投資を決意し先生から教えを請うことにしました。

 

そしてそこから人生が急変しました。

僕の副業月収は10万円30万円と超えていきました。

 

そのタイミングで僕はついに、ついに、本業の会社に辞表を叩きつけることとなります。

僕の中での心のとっかかりが全て消えました。
今までの人生の中で辛かったものが全て取っ払われた瞬間でした。

そして会社員時代にたびたび発症していたうつ病も、この日を境に発症しなくなっていきました。

 

それからも僕は動画クリエイター1本で働き月収が50万円100万円と超えていきました。

その秘訣はビジネスの考え方でした。

 

先生はクリエイターでもあるが、同時にビジネスに関しても詳しい方でした。

動画の作り方ももちろんだが、お金の回り方、クライアントが何に対して価値を見出し、お金を払ってくれるか。それを親身になって徹底的に教えてくれました。

これを読んでくれているあなたへ

そう、僕はたまたま良い先生と出会うことができました。

そうやって自分の殻をぶちやぶることができたんです。

 

今では自分から仕事を取りにいかなくても、待っているだけで仕事が舞い込むようになりました。
自分一人では仕事が受けられないほど仕事が来るので動画クリエイターチームを作って動画制作をしています。
そこには以前の会社のようなギスギスした関係はなく、毎日楽しく、ワイワイ動画制作をすることができています。

自分が仕事を選んで合わない仕事は断っているくらいです。

自分に合うクライアントと共に仕事をし、毎日忙しく楽しく働いています。

何よりもそれを一番喜んでくれたのは、他でもない妻でした。

 

今まで苦労をかけ続けてきた妻と、休日は妻の大好きなレストランに行き、好きな場所へ旅行へ出かけ、そして産まれてきた子供と毎日幸せに暮らすことができています。

いつもそばでどんな辛い時も支えてくれた、妻に恩返しすることができました。

 

そして、妻と子供との将来がとても楽しみでワクワクして生きることができています。

あの時勇気を出してあの一歩を踏み出してなければ、今の僕はなかったと断言できます。

僕は動画クリエイターという働き方が大好きです。

 

最後までご視聴いただきありがとうございました。

 

動画クリエイターになりたい。と本気で思うあなたと、お話ができること、お会いできること、そして一緒に楽しく働けることを楽しみにしています。